「俺、思うに……」って感じ

「テーマが何」って感じよりも、普段の生活の中で私の思うことを思うままに書こうかと思っております。

いじめがなくならないのは日本教育とマウントのせい

日ごろよく耳にすると思いますこのセリフ。

 

「なぜいじめはなくならないのか。」

 

このメカニズムについて私なりにまとめようと思います。

 

 

 

 

いじめっぽい風習の始まり

そもそものいじめの起源は「聖徳太子」までさかのぼるといわれています。

 

といっても、「現代的に解釈すると、やってることがいじめだよね」

といった程度のもので、当時の目的としては

集団から外れようとするものに、肉体と精神双方からの痛みを与え、孤独感を感じさせることで、

最終的に集団に戻ってくるという、

集団における輪(和)を重んじるがゆえに行われていた「善意」で

行われていたことだったみたいです。

 

今風にいうと、「良かれと思ってやった」ってやつですね。

 

聖徳太子の当時は、文明的にも生活水準的にも「協力することでみんなで生きていく」

ことが大切だったことがうかがえるため、これも一つの「秩序」として大切だったのかもしれません。

 

まぁ半分くらいは恐怖政治の始まりみたいな意味合いも持っているかもしれませんけどね…。恐怖心を植え付けて服従させるという意味では。

 

似た風習

似たような風習、言葉に「村八分」なんてものもありますね。

村八分というのは、ざっくりいうと、「成人」「結婚」「出産」「病気」「新築、改築」「水害」「法要」「旅行」

に関する交流を一切断つというもので、要約すると

その村での生活を困窮させて追い出すといったことですね。

 

言語学者によると、共同作業は計十あり、残りの二つは「火災」と「葬式」だそうです。

これが該当しない理由は「ほおっておいたら迷惑だから」だそうです。

 

現代におけるいじめの要因

 

さて、前置きが長くなりましたが、ここからがタイトル回収をはじめます。

 

現代におけるいじめの要因は「日本の教育制度」と「マウント」の相乗効果によるものです。

 

教育制度による弊害

日本の教育って見方によってはでは「勉強する」ことに重きを置いていないんですよね。

日本の教育において大切なことって、「全員が同じことができること」

「平均値に対してすべての能力が著しく劣っていないこと」を、とてもよく見ますよね。

 

 

 言い方を変えれば、「個性を殺して足並みをそろえさせる」とか

「余計な能力をつけさせない」といった意味にも変換できます。

 

かといって否定したいわけではないので…

かといって義務教育が「悪」というわけではありません。

読み書きができるようになるのも、集団において協力するというのを学べるのも、

人と争い、時には喧嘩して痛みを知れるのも、集団に身を置くメリットなのは確かです。

 

 今回の議題に沿って、義務教育の「悪い面」をあえて採用して話を進めさせていただいている。

ということはご理解ください。

 

 

 

出る杭は打ったところで…

要は義務教育においては、出る杭は打たれるのです。

「あなただけを特別には扱えない」、「あなただけに合わせることはできない」

もちろんその通りですよね。都会では1クラス30名を超える生徒が同時に同じことを

学ばなければならない。一人に合わせて進めたり、逆に遅らせたりはできないのが事実です。

 

だからこそ、出る杭は上からも下からも打たなければなりません。

 

 

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こんな感じですね。

 

図にするとどういう弊害があるかなんとなくわかると思いますけど、

これって打ちすぎると反対側にはみ出ちゃうんですよ。

 

文字通り「はみ出し者になってしまう」んですよね。

 

そんな杭が30本もあるわけですから…まぁそりゃ全部を基準内に収めるのなんて無理なんですよ。 

 

 

 はみ出し者の結果…

じゃあはみ出し者が生まれるとどうなるのか。

 

「マウント」が始まるんです。

 

 

なんでここがイコールになるのかは、「自己承認欲求」に起因するんですよね。

 

大人も子どもも同じ

おそらく現代社会に生きてる人なら一度は聞いたことがあると思うんですが、

自己承認欲求。要約すると、自分を特別なものとして認識してもらいたい欲なんですけども、

 

成人以降の大人になった方が社会において自分に価値があると信じたくて

この欲を満たすために、いろんなことをすると思います。

 

これは子供ももちろん例外ではないんですよね。

 

「学校の基準」という全校生徒が同じ範囲内に収められれば、もちろん個人の特別性ってだんだん死んでいくんですよ。

でも子供だって親にも先生にも友達にも「特別に扱ってほしい」とか「自分は他とは違うんだ!」っといった自己承認欲求があるんですよ。

 

みんながそう思っている中で、たまたま力が強い子だったりたまたま頭が切れる子が

ほかの人や先生の注意を惹きたくて、

誰かを攻撃したり、先生にいたずらを仕掛けたりして、

 

「僕(私)はここにいるんだよー私だけを見てよー」

 

ってアピールしてるんですね。

 

こう言った、「同じレベル間で起こるマウント」が「物理的 or 精神的」に表面化

したものが「いじめ」の正体なわけです。

 

余談

暴走族や非行少年のきっかけも私はこの辺が始まりではないかなと思っています。

結果、その仲間内といることが楽しくて続けるっていうのは別の話だと思いますけど。

 

 

最後に

短い言葉にまとめるなら、

 

「学校という狭い範囲内に押し込められた子供たちの間で、自分が特別だと信じたい心から発生する物理的 or 精神的なマウント」

 

が、いじめの概要だと私は考えます。

 

もちろん同じような現象は会社とかでも起きてますよね。

マウントのきっかけは違ったりしますが。

 

もっと社会単位で、長所も短所も尊重できるようになれば

少しはマウントをとる必要のない社会になるのではないかなーと私は思います。